けいおん

2010年11月11日

遅ればせながら『けいおん』第2期、22話から26話まで一気に見た。
(そのために午後休をしたわけではない。念のため)
その23話で、卒業間近な軽音部メンバーは、自分たちの足跡を残そうと、いままでの曲を全て演奏し、テープに録音するシーンがある。
観ていて、「あ、これはCDで発売するな」と思ったし、出たら買っちゃうかな、とも思った。
なんでそう感じたのか、自分自身を分析してみると、いろいろおもしいことがわかる。

新しいメディアが出ると、古いメディアは危機感を覚える。
テレビが普及したとき、新聞社はもうつぶれるとか、ラジオはもう使われなくなる、と真しなやかに囁かれたものだ。
しかし実際には現在に至るまで、生き残っているし、ちゃんと棲み分けされている。
iPodの普及とiTune Storeの成功で、CD業界の産業構造自体が崩壊するかとまで言われた。実際に売り上げは落ちているだろう。電子出版の本格普及が始まり、出版業界も大きな危機感を持っているはずだ。

現在は、情報のマイクロ化が進んでいると言われている。
webにおける情報の単位も、ホームページと言われる一連のリンク構造で作られたページの集合から、1ページ単位のブログとなり、いまやtwitterやtumblrなどのマイクロブログひとつひとつが個別の識別子を持っている。
音楽でも、レコードからCDの時代までアルバムという単位で買っていた曲も、iTuneストアで一曲単位で買うのがあたりまえとなった。
本や雑誌も、自分のほしい部分を、ページ単位で変えるようになるだろうといわれている。
こうした、小さな情報単位で購買できることは、利用者にとっては無駄な出資をしなくてすむのでよいことである。
しかし、それでもリアルな本やCDをほしくなることがある。
その部分に、「古いメディア」が生き残る策があると思う。

先日、pythonを勉強しようと、入門書を一冊買った。
ふつうに知識をいれるだけなら、python入門系のサイトは山ほどネットにある。
それでも、ある程度網羅的に体系立って、自分のペースで学ぼうとするとき、ちゃんと編集された本でじっくり読みたい。
そこには信頼であったり、記述者の責任であったり、紙の扱いやすさであったりする。
もちろん、ネット上の情報でも、複数人数でちゃんと編集してある信頼できるページは多い。体系だって、正確に書いてあるページもあるだろう。それを、iPadなりに取り込んで、自由な姿勢と時間に読むことはできる。
だが、信頼できて、自分のレベルにあったコンテンツを探し出し、それをiPadで自由に読むようにするための作業は、そこそこ手間がかかる。
この作業こそがパッケージングであり、お金を出してでも本を買いたくなる動機だ。

『けいおん』の話に戻る。
唯や澪達が、卒業式の前日に、寂しがりながらも元気に収録している風景。そうしてできあがったアルバム。おそらく曲の前後には、はしゃぎ回る彼女たちの台詞が入っているのだろう。
メディアミックスによる効果もさることながら、そういう背景と演出が施されたアルバムは、曲の集合である以上の価値がある。『ふわふわ時間』や『わたしの恋はホッチキス』を一曲づつ買って再生するのとは違う。

古いと言われるメディアは、新しいメディアの出現で、必ず変革を求められる。
そうしなければ淘汰されるから。
しかし、単純な二元論的に、もうこれはいらない、とはならない。
ITによって細かくしたものを大量に扱うことが容易になった。
情報を生み出すクリエータは、いつの時代でも価値を生む側であり注目されるところだ。
一方、大量な情報の海から、意味のある組み合わせを選ぶということ、そして組み合わせ以上の意味を持たせること。
情報だけでなく、手にとる喜びを与えられるものを作ること。
それがパッケージ化であり、その行為にも価値があることだと思う。


sylphide_ffr31mr at 21:51コメント(0)トラックバック(0) 
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